Over the Rainbow

その音を探しに

霧の向こうの。 10/8 「ある個人的な問題-レインボウ」 タヴィアーニ兄弟監督

好きな映画監督を聞かれたら、少し考えて『今は映画を殆ど観てないので、知っている監督も少ないの。ビクトル・エリセ監督と昔のジャームッシュかな。あぁ、大切な存在を忘れていた。タヴィアーニ兄弟!』と答えると思う。
彼らの作品をすべて見ている訳ではないが、明るいイタリアのイメージを覆す様な乾いて沈着な視線と、絡みつく重たい思念のタッチが美しい映像で描かれていて、とても好きだった。
そんなタヴィアーニ兄弟の最後の作品「ある個人的な事情-レインボウ」が、イタリア ネオ+クラッシコ映画祭2018にて上映と知り、どうにか都合をつけて初回に足を運んできた。
と言っても、上映は1日1度3日間のみ。
ここ最近の私の“個人的な問題”を考えると、観られた事だけでも感動である。

さて、数少ない上映回数と3連休最終日で初日、きっと盛況なのだろうなと思いきや、閑散としているとまでは言わないが、満席には程遠い埋まり方に一寸驚く。調べた処、昨年別の映画祭で上映済みらしいが、それにしても少なく感じられた。
総じて“嘗ての映画少年少女”と思われる、如何にもミニシアター系が好きだっただろうなな年配者が多いのは納得。私含めてねw (しかし、年齢の所為か、お隣さんが後半殆ど熟睡なさっていたのは、起こしてあげるべきか迷った。お一人で来館という事は、それなりに思い入れがあってなのだろうし、勿体ない。)
若い人はあまり居ないようで、少し残念に思いつつ、致し方ないかとも。タヴィアーニ兄弟が持て囃されたミニシアター全盛期でも、一般的にはあまり知名度がある監督ではなかった。イタリア映画界の巨匠ではあるが、平成生まれでこの監督を知っているのは、よほどの映画好きであろう。
実際、この「ある個人的な問題」を観終わって最初に思ったのは、『これは、タヴィアーニ兄弟の過去作を観ていて、ある程度の彼らの背景を知っていないと判らないだろうな』と言う、些かマイナス的感想であった。
【以下、ネタバレ含む個人的見解】
 
この作品を説明するとするならば、『パルチザンとして命懸けで抗戦していた主人公が、ふとしたことで抱いた恋敵への疑念を確かめる為に、私情と任務を混同させながら迷走する』と言う一文で済むだろう。身も蓋もなく。
しかも、台詞の大半が登場人物の心情の細切れなので、昨今の説明過多な風潮に比べたら、単純なストーリーなのに状況を理解するだけでも骨が折れるかもしれない。
だが、それが良い。
表情や景色の移り変わりで、作品全体を推し量る愉しみ。
動員数を誇る大作では、なかなか味わい難い楽しみ方である。(「君の名前で僕を呼んで」も、タヴィアーニ兄弟と同世代ジェームス・アイボリーが脚本を手掛けた事もあってか、似た楽しみ方は出来た。尤も、あちらはテーマがテーマなので、全くの説明不足と言う感じでもなかったが。ヒットしたしね。)

複雑なストーリーではないが、あからさまな説明もない。だが繊細な画面。
そんな聊か判り難い作品を息を詰め、食い入る様に観たのは、主人公ミルトンを演じるルカ・マリネッリの演技の素晴らしさに因る処も大きい。英語に堪能なインテリ層であり、故に感情を素直に吐露できず、発酵させた狂気を底に秘める。
そんな役処を無言の表情と瞳の色で、端的に演じていた。
ミルトンが思い寄せる小悪魔美女フルヴィアは、彼を嵐が丘ヒースクリフだと揶揄する。目も口も綺麗でも、不器量だと。

実際の処、ミルトンは優男ではないが魅力的な顔立ちと男性的体躯で、決して不器量ではない。フルヴィアもそれを承知の上で揶揄っているのだが、容姿ではなく本質を突いていると言う面もあったのかもしれない。
ミルトンは嵐が丘の翻訳する知性があり、友人知人もそれなりに居る。表面的には粗野で横暴なヒースクリフとは真逆の存在なのに、核に於いては同じものを持っている。愛の狭軌を突き進むと言う点に於いて。
この映画は、抗戦下の追い詰められた状況で、その姿が露呈する様を描いた作品ともいえる。
フルヴィアの侍女が、ジョルジオとフルヴィアの関係を話す辺り、将に侍女が語り部で進む嵐が丘を意識した構成ではないか。

タヴィアーニ兄弟は、実際に体験したイタリア内戦に一方ならぬ思い入れがあり、戦争の愚かさを描く事を多くの作品のテーマにしている。幾つもの賞を受けた「サン★ロレンツォの夜」は戦いに翻弄された村民を描き、「グッドモーニング・バビロン」は世界で初めての反戦がテーマの映画・イントレランスのスタッフだった兄弟が、やがて敵対する兵士として対峙する悲劇と或る種の救済を描く。(グッドモーニングの方は、第一次世界大戦)
この作品も、主人公と幼馴染で恋敵のジョルジオは、ファシストと交戦するパルチザンに共に身を投じ、戦闘シーンや巻き込まれる村民の悲劇がベースにある。
心情的にパルチザンや米軍に傾いていたとは言え、無辜の農民たち女子供までも一方的に“黒ゴキブリ・ファシスト”に虐殺されていく。難を逃れた幼い少女が、自分が置かれた悲劇に気付けないのか、或いは判った上で失った日常を求めたのか、死した家族に寄り添い横たわる姿は、台詞のない淡々とした描写であるからこそ、胸に迫るものがあった。

しかし、その描写の直後、己の狂想に掻き立てられるように突き進むミルトンの姿が映し出される。
説明が前後したが、このミルトンの迷走は、恋敵ジョルジオの救済の為である。自分の不在の間にフルヴィアに抜け駆けした疑惑を確かめるには、本来は憎むべきジョルジオを救わねばならぬと言う二律背反。次々と打つ手が失われて行く状況に追い立てられるのと合わせ、ミルトンの心理の焦燥は深まる。
国を救うパルチザンの半ば公的行動と、恋と言う“個人的な問題”による迷走。表面上は、『捕虜となった同志を取り戻す』と言う大義名分で取り繕われているが、混迷する心情を表現するかのように、画面は常に白い霧に包まれる。

ゴロゴロと岩の転がる傾斜地、荒れた山道、冷たい空気、霧、霧、霧。

明るく陽気な地中海だけがイタリアではなく、ミルトン同様、暗い路を迷ったのもまた、イタリアと言う国である。
イタリアと言う国家とミルトンと言う個人、併せて象徴する風景は冷たく暗い。
色彩や背景で、言葉より雄弁にこの辺を表現するタヴィアーニ兄弟の手腕は、嘗てと変らず凄い。そして、美しい。
執拗な愛で愛する者も己も滅ぼしたヒースクリフと、大義名分と言う我欲で民草を燃やした国家と、いずれが愚かであろうか。
底冷えする荒涼とした地を迷走するミルトンの背中は、そう問いかけている様にも感じられた。
愛も信念も、捻じれれば進む先は奈落しかない。

戦局はいずれにとっても混迷を深め、それに比例し万策尽きたミルトンもまた、狂気の狭間に堕ちる。
完全に“個人的な問題”の恋の悩みは、恋敵としてジョルジオを殺したいのか、幼馴染のジョルジオを救いたいのか。ミルトン本人にももう判らない。判らぬまま、自殺行為に近い暴走をする。
それは、一つの村の中でも敵味方になって殺し合わねばならぬ、内戦の道を転がるイタリアを象徴している様に私は感じた。
個人と国家がグルグル巻きになる。
そう思いつつ観たラストは、意味深で、だが妙に納得できるものであった。

独り、恋の思い出であるフルヴィアの別荘/嵐が丘に赴くものの、そこはもうファシストに占拠され、ミルトンに取っては墓場でしかない。
嵐が丘ヒースクリフは、物理的に全てを手にしたが精神的には何一つ得られず、失った愛の亡霊に追い詰められて死ぬ。
ミルトンは更に何も得られぬまま、恋の亡霊を追って死を求める。
敵から逃げつつも死ぬ事を願い、地雷が嵌められた橋を踏みしめるが、皮肉にもそれ故、ミルトンは助かってしまう。

この、命運を左右する“橋”は、フルヴィアが好んだ歌「over the rainbow」の具現化と私は思う。
橋は、異界へと繋ぐ道。
“こちら”と“あちら”を隔て、そして繋ぐのだ。
全てを捨て彼岸に至って、見えてくるものもある。
その“橋”を渡り切り、女への愛/我執が己を殺そうとしていた事に気付いたミルトンは、国家が身の内を喰い合っている内戦をどう見直したのか。
更に真っ白な霧の中に消えて行った彼のその先に、虹は視えたのだろうか。

答えのない結末を心の中で転がしていたが、ラストでこの映画の一番衝撃を受けた。
劇中、パルチザンはザクザクと捕虜を殺していたが、途中に持て余すように放置されていたファシストが出てくる。
彼は敵陣の中、声と全身を使いジャズドラムのリズムを刻んでいた。弾丸の様に只管。血走った眼で。
味方にも見放され、敵の嘲笑の眼差しを受けながらでも演じなければならなかったエア演奏は、狂気と一瞬でも長く生きる為の足掻きとが綯い混ざった、抉るようなリズムであった。

この、口頭ジャズドラムが映画の〆、エンドロールに被せられた。
あまりに予想外で、軽くゾッとした。
Over the Rainbowの緩やかに明るいメロディーに乗り、橋から新たな地へと旅立って行くと思ったら、最後に狂気が音の弾丸となって背後から撃ち込まれたような気がしたのだ。
新しい世界に繋ぐ七色の橋である虹もまた、光が作った虚像であり、踏み出せば墜ちると言うことなのか。

最後まで何の答えも説明もなく、観客に自問させたまま、タヴィアーニ兄弟最後の映画は終わった。
それでも、良い。いや、それで良い。
寡黙で複雑な映像の美しさが、無駄な答えを制す。
タヴイアーニ兄弟の最後の作品「ある個人的な問題ーレインボウ」、観ることが出来て良かったと思う。


さて、纏まりのない感想をダラダラと書いたが、備忘録的ものなので反省はしていない。
最後まで読んで下さった奇特な方がいらっしゃったら、お付き合いさせてしまい申し訳がないw
作品としての答えは未だ判らないが、ひんやりとして繊細、そして圧倒的な映像は、変わらずタヴイアーニ色だった。
また、偶然にもこのブログが「Over the Rainbow」と言うタイトルでもあり、より深く思い入れをしてしまった部分もある。

が、この映画をお勧めできるかと言えば、冒頭に書いたようにやっぱり『うーむ』と考えてしまう。いや、はっきり言えば勧められない。
古い作品ではあるが、ドラマティックな「サン★ロレンツォの夜」や、抒情的な「グッドモーニング・バビロン」の方が判り易く共感を得られると思う。個人的に一番好きな「カオス シチリア物語」は、チャンスがあれば是非とも見て欲しい。
その上で、もしタヴィアーニ兄弟の作風に何か琴線に触れるものがあれば、この「ある個人的な問題 レインボウ」を。今後、観られるチャンスは限りなく低くなるであろうけれど。

均等な力で映画を作り続けてきた、稀有な兄弟監督。ビットリオ・タヴィアーニとパオロ・タヴィアーニ
その極一部ではあるが、幾つかの作品を観る事が出来たのは、私にとってとても重みのある経験であった。
奇しくも、彼ら最後の映画はこのブログと同じく、Over the rainbowを掲げた作品で。
冷たい荒野、岩と霧の向こうに虹が視える。
幻でも、奈落でもいい。その先へと渡ってみたい。

不在と言う存在 3/19 downyワンマン [砂上、燃ゆ。残像] 渋谷www-x

久しぶりのdownyは、downyであってdownyでなく、しかしやはり間違いなくdownyであった。

昨年末予定されていたライブが、ギター青木裕氏の病にて急遽休演。
そのアンサーとして、この3/19のワンマンが開催される運びとなった。
その筈、だった。
帰宅後、このブログに手を付けた時点では「大変残念であるが、青木裕氏は再び病床の人」と書きかけていた。
出来れば、その時点で時が止まっていて欲しかったが。

しかし、現実は過酷だ。

3月19日午後14時50分。
開演5時間少し前。
稀有なギタリスト・青木裕氏は、次の世界へと旅立っていった。
身体は不在で残された音だけが舞台に上がる、イレギュラーで壮絶なライブを残して。

青木氏欠場は数日前に告知されチケット払い戻しなしであったが、その段階でソールドアウトしていた会場はギッシリの満員。
ほぼ定刻通りに始まったが、その直前の数十秒間、会場を殺気さえ帯びた静寂が支配していた。
演奏前、こんな風にエアポケットな時間はよくあるものだが、今回の空気の鋭さはあまり経験した事のないものであった。
恐らく、無意識の内に我々観客も、何か感知するものがあったのかもしれない。
音の核をなすギター青木氏の不在の不安、それでもなお会場に満ちる期待。
そんな空気の中、downyの3人と今回の青木さんギターの分をサポートするSUNNOVA氏が入場した。
いつもの様に無言で、演奏が始まる。

青木氏欠席決定は17日だったものの、ワンマン決定した段階で、万が一の場合はギターの音のみでと告知されていた。
だから、あの場にいた全員が、生のギターでない事をある程度覚悟はしていた。
その所為か、私はギターの音への違和感より先に、Vo.青木ロビン氏の声の掠れと不安定さに気を取られていた。
どのアーティストさんも、全ライブを万全で臨める訳ではない。
殊にVo.は不安定になりがちだし、この夜のロビン氏の歌声が、決して下手だった訳でもない。
しかし、明らかに何かが違うと、感じさせるものがあった。

敢えて言うならば、downyの音楽における歌声は、一つの楽器として記号化されている面があると私は思っている。
そういった見方では、この夜のロビン氏の歌は“楽器”や“記号”ではなく、生身の部分が垣間見えていたのかもしれない。
その僅かな違和感に気を取られた瞬間、多分、無意識下で青木氏の永遠の不在を覚悟していた。
いや、私だけでなくあの場にいた大人の多くは、何らかの形で“事実”に気づいていたのではないか。
気づきながら打ち消し、打ち消ししながら祈りを捧げる様に、その演奏を聴き続けるしかなかったのだと思う。
その位、ステージもフロアも、いつにも増し張り詰めた空気感であった。

MCはなく、演奏自体はソリッドに突き進む。聴き手もまた、一瞬も気を緩められない。
青木ギターの音を、同期でなくサポートSANNOVA氏が紡ぎ行く。
それは、ギターでギターで無い音を作る青木氏の音ではあった。
が、生で俯き髪を振り乱す演奏姿は、目に見える形で存在していない。
とても不思議な感覚であった。
嵐の様にうねる音の中に青木ギターは存在せず、だがdownyの中に青木ギターは確かに居た。
この夜、downyの演奏をリードしていたのは、間違いなく青木ギターの音だった。
存在しないはずのギタリストの音が。

ライブ中、ずっと『不在の存在感』について考えていた。
青木氏のギターは、私が聴く中で最もクレバーに狂気を帯びている。
ギターのマッドサイエンティスト
大変失礼ながら、彼の演奏を聴く度に密かにそう呼ばせて頂いていた。
ギターなのにギターでない音を作る、その尋常でなさ。
それは運試し的魔術で成されたものではなく、複雑な設計図と狂気の執着で作られた音で。
将に、狂気の音の科学者。
故に、例えその場に不在であれ、架空の“青木裕”を存在させる事が可能だったのかもしれない。
綿密に準備し設計された、“もう一体の青木裕”を。
若干の違和感と不思議な現実感で構成された、もう1人の見えない青木裕が、あの時間あの舞台に存在していた。私はそう信じている。

イレギュラーな構成であれ、やはりこの夜のdownyもまた本物のdownyであった。
この夜に限らずdownyは、その特異的な楽曲を驚異的演奏で我々を翻弄する。
それは間違いなかった。
しかし、この夜独特の混迷感と綯い混ざって、嘗て経験したことのない様な感覚を覚えたのも事実。
不在の存在感を主張する青木ギターの音を追う様に、地の底からうねるベースの音が体を翻弄する。
特に後半、個人的に後期downyを代表すると思っている「曦ヲ見ヨ!」は、鬼気迫るものがあった。
秋山さんドラムに、乱れ馬の蹄音を感じ、呑み込まれる。
踏みつけられ、引き裂かれてなお、その先にある太陽を目指す。
downyと言う、黒く輝く逆しまな日輪を。
迫力に魅了され、目の不調を考えずに映像もしっかり見てしまったが悔いはない。(視神経炎症で、普段は強烈な光や映像は極力避けている)
多分、私にとってこの夜一番印象に残った演奏だったと思う。

言葉少ない緊張したMCで、1時間半未満、あっという間に駆け抜けたワンマンライブであった。
私の記憶力がないと言うだけでなく、あまりに強烈な疾走で、セットリストや曲数を思い出せない。
その位、有無を言わせないものがある時間だった。
downyの音楽は、快不快の境界線のエッジを疾走している音だと思う。
そういった意味で、今回のライブはイレギュラーであっても、“downy”の本領でもあったかもしれない。
渋谷WWWを超満員にした、復活ライブも経験した。
存在しない存在感が圧倒する、この夜も経験できた。
ファンと言っていいのか判らぬほど未熟な私には身に余る、過ぎたる時間であった。
唯々、祈りと感謝を捧げるのみである。

ラスト、アンコール代わりに青木ギターの映像が流された。
言葉を痞えさせる事はなかったものの、身を切るような痛みを帯びたロビン氏のMCで、その音が完全に存在しなくなった事を感じた。恐らく、多くの人が。
downyの演奏ではなく、ラストの舞台となったMORRIE氏のライブでのソロ演奏の映像と音であったようだが、本当に凄かった。
『あぁ、この方は骨肉を削って音を作り上げているなぁ』と、改めて胸を突かれる。
downyでの演奏とはまた違ったが、自分の骨や神経で真剣に遊んでいる様な姿だった。
その先が如何あれ、それが青木氏にとっての幸せなのなら、むき出しの骨がバラバラになるまで聴く覚悟で、ずっと待っている。
その“不在と言う存在”の重みは、決して消えない。

渋谷WWW-Xの前身、シネマライズは若かりし頃、よく通った映画館で。
その向かいにあったParcoもまた、演劇好きだった当時、何回か劇場に足を運んだ懐かしい場所。
WWW-Xに上がる外階段の隙間から見える跡地は、雨に濡れ切なく輝いていた。
方や満員のライブハウスに進化し、もう一方は再びの復活を待ち眠っている。
崩壊と再生は、繰り返し訪れ続ける。
そんな象徴の様に感じてしまった。ここにもまた、不在の存在感があると。
今振り返ると、あの眺めは一つの救いの様に、私の中に強く残っている。

 

Vo.青木ロビン氏、Ba仲俣和宏氏、Drs.秋山隆彦氏の、衝撃を乗り越えて毅然とした演奏に感謝。
彼ら4人の、強い繋がりを肌で感じることが出来た。
不在のまま永遠に存在するGt.青木裕氏と共に、downydownyで。

逆しまな日輪が、砂の上に燃え続けている。

 

 (スマホ故障につき、親切なフォロワーさんに頂いた画像。wakioさん、ありがとうございます。)

暗く、迷いの森で 11/18 Aoki Yutaka“Lost in Forest”LIVE

去年11/18 のライブ感想を、今さらながら書き綴っている。
まさか、あれから4ヶ月で旅立たれてしまうとは。
昨年中に半分ほど書きかけていたのに、放置などせず拙くとも形にしておくべきだったと、唯々後悔。
今、このタイミングで書くのが正しいか判らないが、忘れたままにしていくより、一つでも言葉として残しておく事がご供養になると思い、敢えて書いてみた。
(尚、青木裕氏御存命の態で書き記されていますので、ご注意を。)

                        


“病室の天井の模様がゆっくり動き出して物語が展開されていく。”

凡そ病室と言うものは、薄っぺらいカーテンに囲まれ味気ないものなのだが、味気ないからこそ、ふっと浮かんだ幻が何時までも消えずふわふわとベッドの周りを漂う。
冒頭の一文は、ソロワンマンを終え入院した、あるギタリストの呟き。
病を押し大きな仕事をした彼・青木裕氏の視る“物語”は、如何様なものであろうか。
それを想像しながら、ワンマンソロライブの感想を書いてみたいと思う。

11/18渋谷WWWで、downyギタリスト青木裕氏のライブが開催された。
downyは知る人ぞ知ると言うか、音楽趣味の人の間でも、認知度に温度差が激しい伝説的バンド。音楽性は括り切れないが、ざっくり言えばポストロックなのかな。
9年間の活動休止の後、復活ライブの渋谷WWW、翌年の恵比寿LIQUIDROOMと続けてソールドアウトさせるほど、待ち望まれ続けたバンドである。
ライブとVJのコラボを導入した先駆的存在で、その独特な歌詞と変拍子を多用した音景は熱狂的ファンが多い。
卓抜した演奏陣のバンドだが、中でも今回の主役ギターの青木裕氏の異様なまで音作りは、凄いの一語。
短期間だが、syrup16gの正式サポートメンバーでもあったので、そちら経由で知った人も多いかもしれない。
余談だが、イラストレーターの腕も異様なまでの描き込みな画法で、凄いなんてもんじゃないw(2年前に個展開催。緻密な上にも緻密に線を重ねて、写実的な造形で異形を絵にする画風は圧巻だった。)

また前振りが長くなったが、その青木裕氏がdownyやその他のバンド活動とは別に、ジャケアートからミキシングまですべて一人で手掛けたソロアルバムが「Lost in Forest」。
着想から十年掛けて出来上がったのも納得な、これでもかと言う程複雑に入り組んだ音をギターのみで作り上げた、変態的なまでにストイックで技巧的な作品であった。
常々、downyのライブを観る度に、青木さんはギターのマッドサイエンティストだと思っていたが、それが正しい感想だったと一人激しく頷きたくなったアルバムでもあるw
www.youtube.com
彼のギターは、ギターであってギターでない。
知らずに聴くと多種多様な楽器の様に感じる音を、全て超絶技巧ギターを駆使して作り上げているのだ。
そんなアルバムを年初めに出し、11月にやっとライブ。そりゃ、観に行かない訳にはねぇw
(やっと本題だ!)

ソールドアウト発表こそなかったものの、渋谷WWWはギッシリの満員。
元映画館だったWWWは段状で観易く、音の良い後方PA前にて開演を待つ。
downyと違い、前方に女性陣が多かったのは、後述するゲスト氏目当てか。
やがて、暗転し開演。暗い舞台の上に、独り黒い影が訪れる。
そこにいたのは、この夜を支配した闇の魔術師だった。

一瞬、「Lost in Forest」の存在を忘れそうになるほど、音源を凌駕するノイジーな音で始まった。
驚きと、息を忘れそうになるほどの魅了と。
暗く深い森の迷路は、今夜彷徨った人全てに消えない刻印を落とした。
あそこまでの嵐で始まるとは、予想していなかった。
音はギターの領域を切り裂き、聴く事そのものも引き裂いた。
それは、恐怖と紙一重の快楽であった。

MCもなく、メンバー紹介もない。
殆どの出演者が黙って座し、ひたすら音を撹拌していた。
闇を、光を、記憶を。刻み込むように作り上げる為に。
青木裕と言う、稀有な音楽家の元で。
その音に酔いしれる事が出来た我々は、途轍もない体験を出来た事を喜ぶべきなのか、禁断を知った事を嘆くべきなのか。
私は判らない。
だが、あの夜に存在できたのは、二度とない貴重な体験であったのは間違いない。

ほぼ満員の渋谷WWWを、ギターを超えた、しかしギターそのものな青木裕氏の音が支配する。
殆どの観客が、息を詰めその音に身を任せていた。
兎に角、圧倒的音である。
ありきたりな表現だが、そう言わざるを得ない演奏で、これ以上の言葉が見つからない。
その音に迷う事で、深淵の本質的な何かに触れられそうに思えた、闇と光の饗宴。
この宴を共に出来た事は、得難い経験になった。

常々、青木裕氏はギターマッドサイエンティストだと思っているが、今夜は闇の科学者の域。
downyとはまた違った、異端な狂気の音であった。
そして、青木氏のみならず、他の方々も一筋縄でない面子揃いで。
カタンスな影を帯びたJake氏ギターも素晴らしかったが、久しぶりなarai tasuku氏の存在感に瞠目した。
1thを出した頃によく聴いていたが、彼もまた深い森の住人で。
登場した一瞬、紛れもなく彼の世界が視えた。
arai tasuku氏の持つ子供の無垢な悪意に満ちた闇と、青木裕氏の計算ずくな大人の闇がスパークしつつ融合した瞬間が、堪らなくゾクゾクした。
うん、正直、予想以上に良い組み合わせw
数年ぶりかでも、arai tasukuの独特な魅力は色褪せていなかった。
あの錚々たる面子と共に、青木氏の世界を壊す事なく自分の色も滲ませたのは、お見事。
と言うか、若手のこの才能を融合させた、青木氏の慧眼は流石と言うべきかな。

ここまで、絶賛しかないライブ感想であるのだが。
実は、非常に困った観客がお一人いらっしゃって、残念の極みであった事を書き残す。
興が乗られたのか、割と序盤から大声で賛美。
いや、その気持ちは判る。ライブ中に歓声上げるのも、称賛するのも悪い事ではない。
だが、タイミングとバランスは考えようよ。
ほぼ全ての観客が拍手すら出来ず息を詰め圧倒されているのに、演奏の最中でも個人的感想を大声で垂れ流すのは、果たして観客の“権利”なのだろうか?
ライブ盤作るとしたら、台無しにしたよね。
ライブは演者だけで作るものではない、我々観客もまた、一体になって作り上げるものだと思う。
だが、それはあくまで“チャンス”に過ぎず、権利ではない。
自分一人を主張する権利は、少なくとも観客サイドは持ち合わせていない。
青木氏が黙るようにと声を上げて、やっと迷惑行為が終わった。
演者に言わせてしまう程、観客として恥ずかしい事はない。
今後、こんな事がないように祈る。

さて、気を取り直して後半について。
この夜のゲストで唯一の歌、夜の森の魔王MORRIE氏の登場に圧倒された。
何度かお見掛けした事はあるものの、実はライブは初体験。
ラルク好きを公言しているので意外に思われるかもしれないが、そちら方面疎いのだw
ギターインスト仕様PAだったのか、最初こそ若干の違和感があったが、直ぐに驚異的歌声に飲み込まれた。
艶、深み、歌唱力。声であれほど支配できるのは、魔王以外の何者でもない。
緻密に狂気を奏でる青木ギターとの融合は、陶然とするばかりであった。
しかし乍、やはりこのライブは青木裕氏の統べる森の世界。当たり前だけれど。
様々な音を構築し、魔王を償還出来るのは、ギターマッドサイエンティストの彼だからこそ。
黒い闇だけでなく、切ない夢や美しい幻影を音の世界にする。
確かに、あの時間、WWWは異世界だった。

その異世界を、音だけでなく夢見させてくれる映像も素晴らしかった。
霧の森、セピアカラーのステンドグラスの様な背景、燃える枯木。
どれも青木氏の音と融和し、印象的。
が、現在視神経炎症の為、チラ見が限界。悔しい。
元映画館のWWWならではの、ハイレベルな映像と音のコラボなので、楽しめた観客は幸せ者である。
ライブ映像化を望まれるが、そうなると返す返すも口惜しいのが、あの観客の奇声……言うても詮無き事ながら。

燃える様な映像と共に、演奏もラストを迎えた。
2時間に満たない青木裕氏WWWライブは、しかし、深い魔の狭間の森へと観客を誘い置き去って終わった。
深い森に足を踏み込んだら最後。
戻る道を照らす月明かりもない。
あれは、現実の音だったのか、森の木立が嵐に揺れる悲鳴だったのか。
もしかしたらそれは、天井に映された夢だったのかもしれない。
青木裕と言う森が観た夢”に、我々はいつまでも迷い続ける。
そう言う夜であった。
願わくば、カーテンが開き、照らされた朝日に次の音が奏でられんことを。


               

青木裕氏は、このソロライブを医師の反対を押し切り決行した後、急性骨髄肉腫の病名を公表し闘病生活に入られた。
しかしながら、完全に閉じる事はなく、MORRIE氏のライブで精力的に演奏したり、友人と交流を絶やさず生き生きと過ごされていたようだ。
それが僅か4ヶ月で終わってしまったとしても。
何が幸せな“生”であるかは、他人にはあれこれ言う事は出来ない。
だが、きっと青木裕氏の48年は、この上もなく濃密に満たされた生だったと思う。思いたい。

私はファン歴も浅く、ほんの一言二言言葉を交わしただけの、所縁薄い者である。
だが、その僅かな交差だけでも、忘れ難い方であった。
その音や絵画と同じく、とてもきめ細やかな方で、後輩アーティストやファンにまで驚くほど誠意ある対応をなさっていた。
私自身、拙い感想を褒めて頂き恐縮した事は、生涯忘れられない。
青木裕氏と深い交流のあった森大地氏(ex‐Aureole/ライブハウス神楽音・ヒソミネオーナー)が、哀しみの中、とても胸打つブログを書かれているので是非とも読んで頂きたい。
青木氏が多くの人に惜しまれている理由が、その傑出した音楽のみでないことが良く伝わってくる。
https://daichimori.com/2018/03/21/aokiyutaka/

その音に、その温かなお人柄に。
唯々、感謝と祈りを捧げて、この長い文章を終わろうと思う。
青木裕さん、同じ時代に存在してくれて、ありがとうございます。

そして、静かに。 12/7 niente. Last Show 渋谷club乙

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物事には終わりがあると判っていても、好きだった存在が消えてしまう時、心にカランと音が響く。カラカラと転がるその音の源は、失う事への寂寥の念か、振り返った記憶を愛惜しく思う未練か。

この日は午後の澁澤龍彦展から駆け足で、渋谷の乙(きのと)へと向かった。
(余談だが、ここは駅からそう遠くないのに数回に1回は迷う。渋谷の地脈は乱れているからかw)
久しぶりに見るniente.のライブは、しかし、彼にとって最後の時間となる。
実の処、私の音楽履歴は大変浅く、十数年間、某虹色楽団にDIVE TO BLUEし続けて後、やっと他の分野に目を向けるようになて5年ほど。
そんな新規開拓初期に出逢ったバンドの一つが、niente.であった。
彼らを最初に観たイベントはとても良いバンド揃いであったが、今も活動していたのはniente.を含めて2バンドのみ。
その片方のMemeは私の最も好きなバンドの一つだが、非常にマイペースにイレギュラーな活動で存続しているのに対し、niente.はコンスタントで積極的ライブ活動をしていて安心できる存在であった。観れば毎回、感銘を受ける。
しかし、何故かタイミングが合わず、知ってからそれなりなのに年に1・2回しか観に行く事が出来なかった。
niente.は、いつもいる。
そんな甘えがあったからかもしれない。

しかし、この夜、彼らは音を止めた。
名前の通りに。
[niente] 音楽用語で、段々弱く。そして、無。
華やかに、それから静かに“無”になってゆく音に。
全てを尽くして。

そんなniente.のラストステージを共にした、共演バンドについての感想から。
と言っても、1組目の水槽のクジラは殆ど間に合わず。迷ったからw
辛うじて聴けた最後の曲は、大変熱いものであった。エモい。
多分、この日の出演者の中で若者層に一番受け入れられそうなのが、この水槽のクジラ。
しかし、ごめんなさい。19歳の激情に共感するには、既に化石な人間なのです。
いや、そもそもリアル19の頃は、ずっぽりドラコニアに入り込んでいたので、火傷しそうな世界からはそっと逃げ出してたw

2番手のyeti let you noticeも、何となくTwitterで名前を見かけた事があったかなぁと言う程度。
予備知識なしで臨んだので、最初、Vo.のスタイルとハイトーンに女性かと誤解しそうになったくらいww
真っ白シャツに長い姫カットは、一寸引っ掛け問題w
スタイルの所為か、若いお嬢さんファンが多い感じだし。
容姿と声で、自家中毒的ポエジーな世界なのかと思いきや、なかなかどうして。
確かにそういった嫌いが感じられた部分もあったが、それ以外な面も感じられ、最初の印象より面白い展開だった。
曲によってはポストロック色の強い演奏で、しかし激しくとも重すぎない轟音がこのバンドの特徴なのかなと思った。
割と嫌いじゃない音とVo.ではあったが、やはりジェネレーションギャップの敷居は高いかな。
niente.との遠征の思い出MCは、記憶にある内容で、仲の良さが垣間見られて一寸じわっと来た。

と、乙らしい若さに追いつけない老体は、体力温存の為にここまで座ってライブを観ていたのだが。
全く予想外に、3番手のMuscle Soulにやられてしまったのだ。
気が付いたら立ち上がり、1曲ごとに前方に踏み出していた。
予習なしライブだと、こんな風に番狂わせ的お宝もあるのが楽しいw
新譜リリースのツアー中で、前日は稲毛K's dreamだったと知って凄く納得。
名古屋からの遠征なのに、60㎏の機材をステージに持ち込む気概は凄い。本物。
曲が進む毎に、様々な変化を見せる。
最も高まった中盤辺りはUK色が強い感じだったが、最初の方はポストロックな感じだし、轟音の残影での〆るシューゲテイスト。所々、アンビエントな余韻もあったり。
しかし、その最後の最後、激情の轟音の上に、何処かあどけない朴訥で優しいメロディを落として終演したのが、とても印象的。間口が広い上に、芸が細かい。
個人的には前半の、ドスンと重たい感じが好み。
かといって偏り過ぎず、案外、受け入れられる間口は広い様に思われる。

色々な音色に敷居をつけない演奏も良かったが、それに拮抗するVo.が実に素晴らしかった。
艶と強靭さを兼ね備えていて、場面を作り上げていた。
声は一番判り易い楽器で、訴求力を持つ。それを得ているバンドは強い。
Muscle Soul、関東のバンドでないのが残念だが、今後もまた観たい。
しかし、名古屋バンドも良いっすなぁ。Ayslaを思い出したよw
新譜の「NATURALISM」は全国流通なので、それ以前のライブ盤2枚を購入。物販や通販でないと入手できない物が優先。
でも、一寸失敗して、もう一枚あったEPを買い忘れた。これは全国流通盤じゃなかたのね。
それ含めて、また今度という事でw

はてさて。
そして、やっとこの夜の主役であったniente.に。

今更な紹介だが、niente.は女性Vo.を中心に据えた歌モノ。
涼やかな声とクリアなピアノ、煌き柔軟に伸びるギターとうねるベースが織りなす音景は、宛ら光の滝の前に佇むかのような心持ちになれた。
音が瀑布の如く降り注ぐ。
音源も良いが、ライブにこそ醍醐味があった。
そして、私が観てきたniente.の中で、この夜が最高のniente.だった。

特別な事をして、大きく飾った終幕だった訳じゃない。
小さな演奏ミス(いや、そこそこのミス?w)から始まり、それもゆるゆるとしたMCにして、演奏は音の滝を轟かせる。
いつものniente.のまま、niente.として完結させた。
その事に感無量。

終盤のMCで解散理由を語りかけ、やっぱり止めたと笑ったVo.タチバナアキホは小悪魔の様に素敵で、天使の様に正しい。
完全にniente.をやり遂げたのなら、それでもう十分。それ以上の言葉は不要なのだから。
その位、この夜、彼らはniente.を出し切って終えた。
下記のセットリストは、niente,を知っている人なら納得の、彼らを象徴する曲揃い。
大好きな「泡沫」は、アキホ嬢の清涼な声に少し泣きそうになった。
そして、最後のMV曲となった「orbit」は音源を遥かに超える感動があり、あぁここまでやり切っちゃったんだなぁと言う思いも一入に。

アキホ嬢が言葉にしなかったように、本当の解散理由はどうでもいいのだ。
niente.は完成された。それだけで。
冒頭の演奏ミスはご愛嬌、どの曲も本当に良い演奏だった。
普段なら〆に使う曲でなく、現メンバーが初めて一緒に作った曲で終えた。
アンコールはなし。本編で完結したのだから。

最後まで音は輝き続けた。
でも、いつまでも続く音はない。
心にカランと転がる、寂しさの音も。
余韻は段々弱く薄れ、そして静かに。
niente.はniente.(無)として、本当に完成されたのかもしれない。
有り難う。楽しい時間でした。


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niente.@渋谷乙セトリ:
chromatography
泡沫
orbit
M4
noctiluca
glide
1R
Altair
slowaid
theta

トラツグミの庭に遊ぶ人 12/7 澁澤龍彦-ドラコニアの地平- 世田谷文学館

トラツグミと言う鳥がいる。
別段珍しくもなく、日本でも見る事が出来る地味な鳥らしい。
私自身は意識して視た事がないが、きっとどこかで目にしているかもしれぬ。
この鳥がなぜ有名かと言えば、そのか細く不安定な鳴き声が、夜の森に鳴り響くと人の心に不安を掻き立てる存在となるから。
そう、日本古来からの妖怪“鵺”の正体は、このトラツグミの鳴き声から連想されたものだと言われている。
鵺とは、猿の頭にトラの手足、蛇の尾を振る物の怪。その鳴き声や存在だけで不吉とされ、人々の恐怖心を煽ってきた。


と、また本題とは違う長話から始める。
今回は、世田谷文学館で長期展覧をしている、澁澤龍彦展ードラコニアの地平ーを観に行った感想。


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没後30年である。
澁澤龍彦(この名だけで独自の存在なので、敢えて敬称はつけない)は、昭和に生まれ育った、所謂サブカル好きには畏敬の念を持って語られる存在。
存命中は、或る種の人間の知的好奇心を擽り続けた。
昭和ど真ん中世代の私も、御多分に漏れず、思春期は常に彼の作品と共に在った。
流石に今はもう滅多に手に取らないが、私と言う成分の相当部分が澁澤によって形成された事は間違いない。
そういう人間が、展覧会があると知って無視できようかw

徳富蘆花の街にある世田谷文学館は、小さいが静かに美しい会館。
その2階の特別展示室の限られた空間に、生前彼の愛した鉱石や生原稿がぎっしり陳列されている。
(ここで注意点。澁澤展のチケットで通常展示コーナーも観られるが、素敵デザインなチケットの肝心な部分を毟られてしまう事。知らずに泣いた方が複数いる模様。)
ドラコニアとは、その名の通り、澁澤自身が名付けた“龍彦の領土”。


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生原稿はどれも垂涎な作品ばかりであったが、照明の暗さと書き殴った癖のある文体の所為で、全てを読もうと思ったら相当な時間を要するだろう。
現状の目ではそれは不可能なので、視えない龍が遊ぶ空間の全体の雰囲気を味わう。
ギッシリと並べられた原稿の悪筆でさえも、残り香の様で味わい深い。
よくよく見てみると、80年代に入ってからの字は、当時の丸文字文化を反映してか、一寸可愛らしくなっている気がした。
恐らく当時の編集者からと思しき資料メモも展示されていたのだが、これが見事なまでの活字体の様なカッチリ丸文字で、こう言う若者文化もシレっと貪欲に取り込んだのかななんて妄想するのも楽しい。
更に時代は遡るが、昭和女性のおしゃれ文化を牽引したananに寄稿していたりと、今振り返ると澁澤も時代そのものも柔軟であった。
いや、硬い時代の殻を破ろうとする、破天荒さがあったと言うべきか。

また、書簡や寄稿文の多さで、交友関係の広さ深さを知る事が出来る。
澁澤自身や友人が海外旅行に旅立つ際、互いに空港まで見送りしあっているのが、時代を感じさせる。
マメに手紙/葉書を書き送っているので、原稿より一寸綺麗な文字が並んでいるのを観るのも一興。
逆に、余所行きでない家族と交わしたメモもまた、澁澤の表向きでない人間臭さが味わえて良かった。
咽頭癌摘出で声帯を失った後、メモで意思疎通をするしかなくなったが、そこに悲嘆さはない。少なくとも、今回展示された物には。
特に龍子夫人へのメモは、クスリと笑ってしまうものもあって興味深かった。
夫人の言葉使いに文句をつけたり、術後の食事について、夫人が作ったものじゃないとと甘えたり。夫婦の機微を感じさせる。
しかし、「ピン札と言う言葉を使うのはあなただけだ」と言い張っていたメモは、負けず嫌いな子供が自分の考えを曲げない様な稚気が漂い、思わず笑ってしまったw

全体に原稿等文章中心の地味な展示だが、こうやって一つ一つ小さな面白さを拾う宝探し的な楽しみ方が出来たのが良かった。
幾つか手書きのイラストもあるので、その拙い可愛らしさも見て欲しい。
学生時代のノートや原稿の題名が、デザイン文字で書かれていたり。
最後の最後、結局書く事は出来なかった玉蟲物語にまでイラストをつけていて、枯れる事がなかったのだなぁと感心。
海外土産のワイン瓶が、一般的ではない歪んだ形をしてたのも、実に真っ直ぐではない澁澤らしさじゃないですかw

そんな中、ふっと目に留まった小さな卓上カレンダーの書き込みが、一番大きな印象を残した。
最後の著作となった高丘親王航海記の進捗状況の記載に混じった一文。

87年4月6日、小さく『風呂でトラツグミを聞く』と。

この3週間後に最後の作品「高丘親王航海記」は脱稿し、更に4か月後、龍は地上の領土から天空の領土へと旅立つ。
そんな、旅立ちへの前触れを感じさせるような書き込みに感じられた。

ここでやっと冒頭に繋がる。
不穏な鳴き声であるにせよ、鳥は鳥である。
恐れおののき病に倒れた平安の世の時代の人と違い、澁澤がその鳴き声で病んだ訳もあろう筈もない。
が、彼が敢えて言葉にして残した意味を考える。
か細い鳴き声が不吉な魔物に変化するその過程、人が感じる心理は。
ツギハギだらけの体を押し付けられ、ありもしない物の怪に仕立てられた鳥の声の記憶を書き残した意味を。

結局の処、澁澤龍彦とは遊びの人だった。
研ぎすまされ、余人には手の届き難い知性で遊ぶ。
卓越した知識を自由に操ってドラコニアと言う領土を作り、一人遊びがとても上手な人。
その膨大な教養に圧倒され、我々凡人は彼をカリスマに祭り上げたが、澁澤本人はか細い声の鳥と同じく、様々な妄想を押し付けられて“物の怪”にされた様な心持になってはいなかっただろうか。

トラツグミを聞いた 』
“肉体的声を失い、命を削りながら文章を書き綴り続けた人生の最後を前に、本当の自分の声を聴いた”

小さなカレンダーに更に小さく書かれた一文に、そんな想像を巡らしてしまったのもまた、凡人が澁澤を物の怪にしたくなっているだけなのかもしれない。
それでも想う。
澁澤龍彦とは、己の知に遊んだ人だと。
トラツグミの庭に遊ぶ人だと。

今回の展示は、決して派手ではないがドラコニアの端っこを覗けた様で満足。
しかし、澁澤と言えばエロティシズムなのに、それを象徴するベルメールやシモン人形が狭い通路に詰め込まれていたのは残念。
違うよ、どうせなら奥のもっと狭くて仄暗いスペースに隠匿しないとw
ベルメール人形の幼女足が黴に侵食されていて、『あぁ、時間は許してくれないんだなぁ』と思った。
そう考えながら眺めていたら、ファンに同伴されたと思しき女性が澁澤や人形についての説明を聞いて『どうしてそんな思考(嗜好?)になるか、理解出来ない』と呟いていて納得と軽いショックを覚えた。
没後30年。遠くなった。
そう、時間は許してくれないのだ。

もし、彼が存命ならもう卒寿に手が届きそうな頃だ。
今回の展示で、壁に唐草物語の一節が記されていた。
それは、澁澤の今の年齢と同じくらいの老齢な安倍晴明についての記述で始まる。
老いても澄んだソプラノの声で、しっかりとした足取り。
だが、深い諦観を宿した眼を持つ賢者。
それは、今でもトラツグミの庭で遊び続けている、澁澤龍彦の姿ではないか。
澁澤の著作は、サド侯爵や毒薬、ドロドロと陰に沈むテーマが多かったが、決してべたつかず透徹した知の世界であった。

“知性”とは、単に知識の寄せ集めではない。
己の中の鵺の声に耳を傾けられる事だと思う。
実体のないツギハギの虚構である事も、その陰に隠れた真実のもろさも。
鵺は震える鳥に過ぎない事も。
それら全てを受け止められて、理解咀嚼出来る事こそが知性ではないだろうか。
只管、知と遊ぶ世界は、全てを濾過する。
エロスもタナトスも、濾過し珠として呑み込んでいく人だった。

ドラコニアの地平は、遥か遠い。
その庭の片隅にそっと忍び込み、トラツグミの声を聴く。
世田谷文学館、そんな空間であった。



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曖昧な輪郭の淵 11/19 Neon Messiah vo.14 ヒソミネ

書く書く詐欺で長らく放置していたこの場所を再び埋める気にさせたのは、某大御所モンスターバンドでも、安らかな眠りの歌声でもなく、埼玉の小さな箱で繰り広げられたどっぷりドープな世界であった……w

ライブの感想を書くために開いたブログなのに、病気の後遺症でPCを使えず、Twitterのみにかまけて放置十数ヶ月。

今更ですが、再開します。

で、冒頭の一文。
詳しく書けば、埼玉ヒソミネNeon Messiah vo.14なるイベント。


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まぁ、凡そ世間一般には知られていない場所と企画に行った感想かもしれない。
しかし、認知度と密度は必ずしも等しい関係ではないのだ。
諸事難関を乗り越えて行った甲斐のある、凄いとしか言いようのない濃密な時間を過ごすことが出来た。

実はこの前日18日に、downy青木裕氏のソロワンマンと言う魔界クラスのライブも観ており。(いつかこちらに感想を纏めたい……と、思ってはいいるw)
19日当日も3時まで浮世の義理に縛られ、ダッシュで宮原まで飛んで行ったのだが前半3バンドは見損ねてしまった。
最初から最後まで、大変好奇心掻き立てられるバンド揃いだったので頑張ったが、何せ遠方片道2時間半。
3バンド目のNtttは一瞬だけ聴けたが、大変そそられる音であっただけに、間に合わなかったのは非常に残念である。


それでも、目当てのバンドの一つsabachthaniは、セッティングから見られたのは有り難い。
ドラムのアラブさん、私以上にギリギリ遅刻滑り込みセーフであったが、流石熟練の傭兵、余裕の表情で腕慣らししている姿に脱帽w(恐ろしい事にこの日はトリプルブッキングで、演奏終わった瞬間に次の初台まで飛び出していかれました。脱帽どころじゃなく凄すぎww)

UPされる映像でちょこちょこチェックはしていたものの、sabachthaniのライブはまだ2・3回しか見ておらず。
ベテラン技巧派のインプロは、私の様な素人があれこれ言うのも烏滸がましいのだが、今回は特に圧倒された。何かもう、凄いとしか。
音に遊ぶのでも、音で遊ばれるのでもなく、野性的本能と鋭利な知性と言う相反する2面性が、鬩ぎあって作り上げた音がそこにあった。

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ドラム、ベース、そしてギター。たった3つの楽器で演奏していると思えぬ、圧倒的な重厚感。幹が太いが単に塗り潰されず、繊細さを感じる。
だから、轟音なのに個々の音が見事に際立つ。そして、融合する。
リアルなkaetsuギターに惹き込まれていると、計算尽くな嵐の様なドラムに巻き込まれ、厳密、いや厳粛にすら感じられるベースに律せられる。

ēli ēli lemā sabachthani
神よ、神よ。何故我を見捨て給うたか。

激情に駆られた慟哭の轟音と、月に嘆く遠吠えの様な旋律と。
目まぐるしく移り変わる感情の様な音景は、圧巻。
3ピースが奏でる域を逸脱している。
いや、3ピースと言う基本形、原始的形態であるからこそ、無駄なくあらゆるものを内包して、この世界を作り上げられるのかもしれない。
そして、毎回、闊達に輪郭を変えていける。
正直、私には理解しきれない世界だ。が、だからこそ心惹かれ、その音の深淵へとダイブしたくなる。
細胞が、原始を思い出そうとしている。体全体で音の快感を拾うのだ。
※動画UP方法が判らず、以下Twitterに上げたものを転用。日付誤りで、全て11/19の映像。


 故に、sabachthaniは、リアルにその場であの音にの波に揺られる事に意味があるバンドだと思う。
30分の演奏で賦活され、同時に奪われる。
こう言う音は、味わってしまうと中毒。またすぐ次が欲しくなるw
この1バンドを観られただけで、片道2時間半の価値は十分あった。

しかし、sabachthaniで唯一残念だったのは、VJ paradeの作る映像との融合を楽しめなかった事。これは演者サイドではなく、私の個人的事情の為。
病気の後遺症で光の点滅する映像が特にダメになってしまい、その殆どを目を瞑って避けるしかなかったのだ。
我慢できずチラ見したparade worldは、色彩と陰影が細かな点になって流動する彼らしい世界が更に精度が上がっていて、音と互いを高め合っていた。……と思うけど、細切れに数分しか観られなかったので、ホントに勿体なかったー(号泣)
ライブは音だけでない全体を愉しんでこそなので、早く視力回復したいと痛感。
次にsabachthaniとVJ paradeの共演があれば、その時にこそじっくり味わえると良いなぁ。


 転換時間がそこそこあったので、今回首謀者のkaetsu師匠の絶品カレーを堪能。激ウマ。

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食事中、そのkaetsu師匠の本当の弟子であるお嬢さんをナンパw
うんうん、こうやって幕間を楽しめるのもヒソミネの魅力。これがあってこそ。


 そして、今回の愉しみであったdormerの演奏へ。本当に久しぶり。(動画は、ミスにてなし)

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こちらのバンドも熟練の技巧と高度な精神性を持った、聴き応えのある存在。
独特のVo.と古語の歌詞は、何処かオリエンタルな薫りと信仰心の様な気配を漂わせる。
以前観た中山晃子さんのライブペインティングとの共演では、砂漠に吹く風を感じた。
しかし、久しぶりに観たライブは、新曲が多かった事もあり、数年前とはまた違う世界を構築しようとしている様だった。

直感で視えたものは、彷徨する巡礼者の休息。或いは、一つの到着点。
今まで数回観たライブの中で、最も整合性のある音だった様に感じた。
とても綺麗で緻密に堅められた音景は、流石と聴き入ってしまうハイレベルさ。
dormerでないと作れない世界がそこにあった。
しかし、魅了されると同時に、嘗て聴いた“神”を求めるかの如き何処か不安定な飢餓感が薄らいでいた事に、若干の寂しさも覚えたのも私の中の事実。
良し悪しを問うものでなく、飽くまで個人的好みの話であるが。

しかし、そうであっても、とても高揚した演奏。
し過ぎていた所為か最早記憶が定かではないのだが、もしかしたら以前よりコーラスが入る曲が少なくなっていたのかなと思う。
過去曲に感じたオリエンタル風味が影を潜めていたのは、その為だったのかな。
非常に緻密な纏まりを感じたが、吹き抜ける風の遊びは薄れたやもしれない。
前回ライブを観てから、間隔が開き過ぎ、私もきちんと聴きとる事が出来なかったとも思う。
いずれにせよ、楽曲・歌・演奏共に極めて素晴らしいし、オリジナル性が高いバンドだ。
透明感の底に不穏さを秘めているのが良い。
次のライブは、こんなに間を開けずに観なきゃダメですねw
そろそろ新譜にも期待。
 

次の關 伊佐央(せきいさお)さんは、映像等で気になったアーティストだがライブは今回が初めて。
だが、今回サポートでチェロを演奏した日南 京佐さんは、大野円雅さんのサポで何回か拝見した事がありそれも含めて愉しみだった出演アーティスト。(以前なさっていたバンドのCDも持っていたりする。ソロでは、深夜食堂の音楽に携わっても。)
この組み合わせはかなり意表を突かれてツボで、大変面白いものだった。


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關さんに興味を惹かれたのは、ずばりその歌唱力の高さ。
UPされていた映像や音源でも驚いたが、目の前で聴いて、今まで私が聴いてきたシンガーの中でも指折りな存在だと感嘆した。
声の深み、艶、余韻を残す表現力。大変素晴らしい。
上手いシンガーは数多いるが、この余韻ある表現力を持っている人は案外少ない。
薫香漂う余韻なのだ。

更にライブ構成自体も、面白かった。
ヤクオフでgetした手動の古いラジカセでテープを駆使し、そのリズムと日南さんのチェロが、艶やかな歌に楔を刻み込む。
有機と無機が拮抗しながら溶け合う様で、とても印象的。
一度聴いたら、一寸忘れられない“コク”があった。

しかし、だがそれ故に少し気になった点も。
抜群の歌唱力と個性ある曲が故、一定の枠が感じられてしまい、似た印象の曲が続いた気がしてしまった。
これは、それだけ印象に残る“個”を持っていると言う訳で、必ずしも悪い事ではないのかな。關さんに限らず、特徴を持つアーティストは大なり小なりその傾向があるし。
ラストが、洋画の曲をカヴァー。(知らない作だったので、タイトル失念。恐らく下の動画。)

繊細さと底にある力強さが感じられて、素晴らしかった。
改めて、非常に魅惑的歌い手だと思う。
この夜に出逢えて良かったアーティストであるのは、間違いない。
終演後、CDを購入。じっくり聴きたいと思う。

 
その次も初めてなバンド、カナリヤの咆哮。ベースレス、女性Vo.な3ピースバンド。


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こちらもまた、何となくTwitterでお見掛けはしていた。
お馴染のVJ・Boriさんが推していた事もあり、期待して演奏に臨んだが……このバンドも予想を超えた存在だったww
いやぁ、思わず『一寸待って、なんじゃこりゃ!』と呟いてしまった程w
TLで流れてきた映像等を軽くチェックしてはいたが、生の演奏はそれとは全く違っていて仰け反ってしまった。
正直に言えば、楽曲や世界観は私の好みとは若干異なっている。
異なってはいるが、それを超えて思わず身を乗り出して見入ってしまう力を持っていたのだ。

何より先ず、Vo.HARUさんが凄い。細身の体から、声が溢れ出す。
将に、可憐なカナリヤが咆哮するかの如し。
終演後確認した処、やはり声楽を学んだ方だった。
正規の声楽教育を受けた喉が、ケレン味のある世界観を絶唱。これは、面白くて聴き応えがない訳がない。
劇場型且つ激情型は最近あまり得意ではなかったが、彼女の歌唱力には兎に角圧倒された。
激情型であっても発声がしっかりしているので、嫌なベタツキがなく透明感を失っていないのが良い。

また、その彼女の声を支えるギターとドラムもガッチリとしていて。
何と言うか、ドラムは艶っぽいリズムだし、ギターはズブズブと沼に引きずり込むよう。
こう言う土台がしっかりしているバンドは、聴き応えがある。
しかし、だからこその生!このバンドは絶対に生!ライブを観てこそ!
映像チェックした段階では、ここまでとは思ってなかったもん。(失礼をばw)
歌唱も演奏も濁らない激情は中々ないので、是非生を。
こちらもVJを楽しめなかったのは残念。劇場型は耳だけでなく、視界でも楽しんだ方が良いのだが、病には勝てぬ。(またも涙)

 
と、大変濃厚な演奏続きで満足していたのだが、濃厚過ぎてかなりの時間押しで迎えたトリに焦る。
片道2時間半なので、終電ギリギリ……久しぶりで忘れていたが、ヒソミネはいつもこうだった。(¯―¯٥)


正直な処、トリのTakkidudaは全く知らないバンド。時間は分刻み押し。
カナリア満足を〆にして帰宅も、頭の片隅を過った。
しかし、鼻風邪を押して出演するお嬢さんと少しだけお話しした縁もあり、ギリギリまで観る事にしたのだが。

これが……凄かった。ホント、凄かった。

この企画、凄い凄いしか言ってない気がするが、伊達に“あの”kaetsu師匠がトリに据えた訳じゃないパフォーマンスのユニットだった。
そう、パフォーマンス。演奏と言うよりパフォーマンス。
お話ししたお嬢さんが、Vo.だけれども歌じゃない的な言葉の濁し方をした意味が、実際に見て納得。

Takkiduda(タッキドゥーダ)は男女ユニットで、演奏二人にパフォーマーが一人。
3人とも白い衣装と和面、記号化する事で別世界を作り上げていた。


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お嬢さんはVo.ではあるものの、声を生の楽器として、電子音を含めた様々な楽器と融合させるスタイル。成程、風邪気味でもあまり支障ないので良かったw

パフォーマー含めてインプロで、次から次へと弾ける泡のように何処に飛ぶか判らぬ展開。非常に面白い。 
暗黒舞踏的うねる動きのパフォーマーに気を取られていると、ループし続けていた音が思いもよらぬ場所で繁殖していたり。
視覚と聴覚を同時に刺激する空間に飲み込まれる。
光彩がさほど激しくなかったので、どうにか 観られて良かった。(それでも半分は目を閉じていたのは、やっぱり残念)

しかし、近未来の音の様でもあり、原始的な本能の動きの様でもあり、不思議な別世界だった。
彼らは決して、奇を衒っているだけではない。
電子楽器やギターだけでなく、フルートや声を生の楽器として入れるタイミングやバランスのセンスが絶妙で、即興ならではの味わいを楽しめた。
暗黒舞踏的なパフォーマンスは懐かしくもあり、若い演じ手(多分)の方がやっていると言う事が嬉しくもあり。(演劇や舞踏系は詳しくないので不明だけれど、もしかしたら今でも流行ってるのかな?)
終演後すぐに飛び出したのでアーティストさんとお話しできなかったが、演奏陣の二人も若いと思う。
系統は違うが花園distance等、こう言うライブを若手がやってくれるのを見ると、ホント嬉しくてワクワクする。

だが本当に終電ギリギリで、一度は演奏中にフロアを出たが、心残りでもう一度戻ったほど。
タイトロープを押して最後まで観た私は、賭けに勝ったと思う。
演奏が終わった瞬間、仮面を外しはにかんだ笑みを浮かべ、予測のつかない別世界から現実に戻ってきたメンバーを観て、やっとこの不思議で濃厚な夜の終焉を感じることが出来たから。
まぁ、ホントに終電ぎりっぎりで、或る意味、現実も終焉する寸前にはなったけれどww
しかし、現実的終焉を天秤にかけても釣り合う程、実に興味深く面白い“パフォーマンス”であった。
人間、予測のつかない展開の醍醐味ほど、面白いものはないのだよw

 
と、長々と書いた個々のライブ感想も、やっと終焉。
ここまでで、5千字目前。長いよ!無駄に長いよ!
しかし、これだけの長さを綴らざるを得ない、不思議な夜であったのだ。
とても濃い、だが何処まで広がってどれだけ深いか判らない、そんな不確定要素に満ちた夜。
恐らく、今の私が求めているものは、この夜の様な曖昧な輪郭の淵なのだと思う。
勿論、明確な世界も嫌いではない。確固たる輪郭を持ち、その中を緻密に埋める世界の美しさも私は知っている。

しかし、形も深さも定かでない曖昧だからこそ色々なものが潜み、視える事もある。
光だけでも、闇だけでもなく。豊潤さと、塵芥と。
今欲しいのは、そういう景色。

思えば、ヒソミネに頻繁に通っていた理由は、ここが曖昧な輪郭と溶け込む淵の縁だから。
音が潜み、静かにそして激しく浮き沈みして夜に溶けるから、ヒソミネ。
底が浅いか深いか判らぬその淵へと、それでも私は飛び込みたい。
岩に頭をぶつけるか、深遠に飲み込まれて戻ってこられないにしてもね。
存外、シレっと戻ってくるより、それを望んでいるのかもしれない。

さて、こんな風にして、再びヒソミネの曖昧な輪郭の淵の味を思い出してしまった私は、再び片道2時間半の常連に戻るのでしょうかw

「深淵を覗いている時、深淵もまた等しくこちらを覗いている」

曖昧な輪郭の淵の深さを覗き、覗かれ。
そして、貴方は/私は、どうなっていくのだろうか。

祈りの向こうに 6/4 成山剛「novelette」発売記念ライブ ル・ケレス 南円山ミュージアムホール

雨上がりの煙るような空気の中、真っ直ぐ電車が進む。

色彩はあるのにモノクロなその光景の中、彼岸と此方岸の分水嶺の様に続く線路をただ真っ直ぐに。

新千歳空港に降り立ち、札幌へと向かう電車の中で私は、現実から異界へと旅立っているような不思議な感覚に襲われていた。この日、私はたった1つのライブを観る為に、本州を離れてこの地へやってきた。

sleepy.abのVo.成山剛ソロアルバム「novelette」の、唯一開かれるスペシャルライブを観る為に。

 

以前からのブログサイトを離れ、今回Hatena Blogを開始したのは、この成山さんソロライブの感想をどうしても書き残して置きたいと思ったから。

移転作業は、前身ブログが一寸面倒な場所なので後日になるが、今後はここでライブ感想を中心とした雑感を書き残していこうと思う。

拙い長文で、纏りもない。対象となるライブのアーティストも、恐らく殆どの方がご存じのない無名の存在ばかりになるだろう。

それでも、その音の世に知られぬ輝きを、私の中から消したくないから。

もし、このブログで少しでも興味を持ち、彼らの音楽を聴いてくれる人が出てくれると嬉しいから。

今後はここ、Hatena Blogで宜しく。

 

さて、閑話休題

冒頭の文章に戻る。

常々、無節操な行動を周囲に呆れられている身であるものの、飛行機を使い宿泊してまでのライブ遠征は、今回が初めて。

北海道は或る種、憧れの地ではあるが、それ故、大きな節目のライブでなければいけないと言う心理的な壁もあった。

それは、私の中で別格な存在の一つであるsleepy.abのワンマンライブを指していたのだが、今、彼らが地元北海道であれ、以前の様な活動をする状況にはない。

代わりと言う訳ではないが、活発に動いているVo.成山剛氏のワンマン、それもソロ作品リリース記念のスペシャルライブと言う事で急遽、北海道まで足を運ぶ決心がついた。

 

札幌を拠点とし、メンバー全員北海道から生活を動かさないsleepy.abは、少し変わったポジションのバンドだ。

全国区の音楽畑ではそれなりに有名だが、北海道民でも知らない人の方が多い。

一時期はメジャーにも居て、大きなフェスを幾つも経験している実力派中堅バンド。

その浮遊感と幻想的な楽曲は、北海道のシガーロスと例えられる存在である。

中でも、sleepy.abらしさを最も際立たせるのがVo.成山剛氏の、独特な歌声。

美しくスモーキーなその声があったればこそ、日本では他に余りないタイプの楽曲も生かされ、更に魅力を増す。

事情は割愛するが、この1年間、ほぼ彼のソロ活動がメインとなっており、先日、初のソロアルバム「novelette」もリリースされた。

発売以降、かなり積極的に全国を回り、弾き語りライブを続けてきたが、いずれも内輪的な小さな場所ばかりだった。

リリースツアー最後になって、やっと本拠地札幌のキャパと音響が整った会場で、ストリングスを従えてのスペシャルなライブをする。

そうとなれば、諸難関を乗り越えてでも行かざるを得ない。

 

彼岸と此方を隔てるのか、結ぶのか。

判然とし難い線路を進む列車に乗って観に来たライブは、或る意味、想定範囲内であり、予想を超えたものでもあった。

会場は、ル・ケレス南円山。マンションの一角だが公営の、小さなミュージアムホール。普段は、小規模なクラシック演奏会などで使っているような感じ。

私が何度か足を運んだ事のある、永福町sonoriumを庶民的にした感じの会場だ。

今回の集客はほぼ満員ではあったが、120人前後のキャパシティーであろうか。

私を含め、本州から遠征してきた常連ファンも多々見受けられたが、自転車で来場した地元の方も居て、その事に少し感動してしまった。

音楽でも地産地消をw

 

今までの独り弾き語りとは違い、クラッシック演奏家を含めた7人のサポートを入れての、正に“スペシャル”なライブ。

演奏陣の素晴らしさもさることながら、今回の一番の肝は、ソロアルバムを手掛けた田中一志さんの存在であろう。

敢えて言おう。

この夜のライブは、成山剛のソロライブではなかった。

これは、noveletteと言う作品それ自体のライブ、いや、演劇だったのではないだろうか。

脚本と主演、成山剛。演出家、田中一志。

ベテランから若手の助演陣を迎えて、小さな舞台をにぎやかに演じる音で満たす。

そういう、夜であった。

 

正直に言うと、私はこの夜、半ば夢うつつを彷徨っていた。

演技する音たちが、あんなに華やかに飛び回っていたのに、それを目を瞑り、耳で観ているあの感覚。

眠れる音楽を標榜するsleepy.abのライブでは、何度も味わっているが、とても不思議だ。

長さに若干の差異はあったが、殆どの曲が5分前後のもの。

その5分のうち、夢に堕ちた時間が果てしなく長くて。凡そ永遠かと思われる時間、意識を失いながら、メロディだけは耳が体が追い続けていた。

一瞬は永劫であり、永劫は一瞬である。

それをリアルに感じる瞬間こそが、この夜の音の醍醐味だったのかもしれない。

 

このアルバムが出来上がる過程を、成山さんソロライブでずっと見続けてきたが、リアルな音となって体験するのは、音源を聴くのとはまた違った味わい。

先程書いたように、この夜のライブは、総舞台監督である田中一志氏の力がなかったら、成立しなかった。

弾き語りで静かに浸透するソロライブから一転、立体的に構築された音は、故に、成山剛のものであって、成山剛のものではなかった。

これは、一夜限りの夢。幻のお芝居。

それは良し悪しとは別の評価であり、こういうスペシャルでイレギュラーなライブも刺激になり、今の彼にとっては必要なものだったと思う。

 

しかし、バイオリン・チェロ・オーボエクラリネット・ドラムに鍵盤と総指揮者を従えて、本当に華やかな“眠り”だった。

この楽器陣を挙げると、端正でクラシカルな演奏を想起するかもしれないが、良い意味でおもちゃ箱をひっくり返したような、遊びに満ちた音たちで。

態と歪ませて弾いてみたり、胴をたたいて拍子を取ったりと、オーソドックスな演奏と織り交ぜた変則的な技法が、可笑しみと緩やかな癒しを演出する。

だからこそ、この夜は音の演劇であり、眠りながら音を観る事が出来た。

シンプルな原曲から、これだけの華を引き出した田中氏の功績は、素晴らしい。

と同時に、何といっても主演・成山剛の歌の力量と、作曲力が秀逸。

多々の楽器、それもかなり遊びを入れた演奏に負けず、丁度いいバランスで。

ざっくり言えばフルメンバーの第一部、弾き語りの第二部、再び全員での三部+アンコールの構成であったが、華やかなフル構成としっとり沁みる弾き語りと、緩急があって良かった。

田中氏の別名義sizuka kanata曲である「dragon's smile」や、久方ぶりの「pain」を聴けたのは望外の喜び。

この日の演奏一員だった、成山さん専門学校時代恩師でもある下川さんに褒められたエピソードなど、MCも充実。(どうやら学生時代は奇を衒った曲作りをしていたようだが、そんな中、このpainを披露した処、ちゃんとした曲も作れるんだと褒められたとかw)

また、原曲から最も変化したsleepy.ab曲「エトピリカ」は、その演奏姿を含めて、非常に面白かった。

様々な楽器を交互に繰り出し、途中、田中氏も催促して楽器を手渡して貰って演奏に加わるなど、これぞ生のライブの愉しみと言った即興性や、演奏なのに演劇的に感じた要素が詰まっていた。

 

しかし、このアルバムを作り始めて以来、ずっと心に響き続けていた「ladifone」と「in the pool」は、何度聴いても別格。

弦楽器が入った事で優美な広がりを見せ、木管が柔らかな深みを足す。

ladifone」は、成山さんの造語。“祈り”をイメージして作った曲。

私は、この曲を初めて聴いた時から、現世と異界の狭間の川を下っていくイメージを感じていた。

それが、この日、北の大地を真っ直ぐに走り続ける電車に乗り、なんだかとても納得がいった。

 

演奏を聴きながら、昼間見た光景と、夢現の幻想が交互に浮かんぶ。

祈りは、今と未来、或いは、この世と彼岸の分水嶺なのではないだろうか。

隔てる分かれ目でもあり、繋ぐ結び目でもあり。

祈る事で、一つの転機がもたらされる。結果がどうあろうと。

弾き語りや音源だけでは感じ得なかったそんな考えに至れたのは、北海道で、この構成と演出で聴けたからこそ。

更に、この日一番感動した「in the pool」演奏を聴きながら、その思いを強くした。

作り手の成山さんの意図を正しく解釈は出来ていないかもしれないが、私は、その“祈り”の先にあるのが、この曲だと思う。

 

 「in the pool」は、水に沈むイメージで作られたとの事。

この場合、水に沈むとは自己の中に深く入る事であろうが、その底で手にしたものは何だったのか。

水は異界であり、命の根源でもある。

そう、命。この曲を聴くと、輪廻し生まれいずる魂を連想する。

分水嶺である祈りが、その先を越えて至った彼岸から、未来へ転生しようとするように。

この夜聴いたこの曲は、私にそんな情景を見せてくれた。

もう、それだけで、北の大地にまで音楽を追いかけてきた意味があったと胸が熱くなった。

 

それでも。

再び言う。

この夜のライブは、成山剛の“ソロ”ライブではなかった。

成山剛が作った「novelette」と言う素晴らしい物語を、優れた演出家や助演陣と一緒に作り上げた、美しい舞台であった。

舞台とは又、現実と異界との分水嶺

沢山の音に彩られ、美しい祈りを奏でる世界。

単純にソロライブではなかったが故に、その場所にいられた事を私はとても満足している。

 

翌日、前日の曇天が嘘の様な青空の下、再び、大地を真っ直ぐに走る電車で帰路に就いた。

noveletteに綴られた物語は終わり、祈りもまた、閉じられる。

分水嶺から今日と言う現実へと戻る旅路は、しかし美しく、私は幸福感を噛み締めていた。

この地で音楽を聴く。そのこと自体が、私の祈りだったから。

隔てる分かれ目を越えれば、繋ぐ結び目も解ける。

再び、祈るその時まで。

 

2016.6.4  セットリスト

ヒトリキリギリス

ladifone
コペルニクス
dragon's smile
メロディ
ホログラム
lump
palette
未発表曲
pain
エトピリカ
ピエロ
high low
in the pool
街路樹
en
ねむろ