Over the Rainbow

その音を探しに

霧の向こうの。 10/8 「ある個人的な問題-レインボウ」 タヴィアーニ兄弟監督

好きな映画監督を聞かれたら、少し考えて『今は映画を殆ど観てないので、知っている監督も少ないの。ビクトル・エリセ監督と昔のジャームッシュかな。あぁ、大切な存在を忘れていた。タヴィアーニ兄弟!』と答えると思う。
彼らの作品をすべて見ている訳ではないが、明るいイタリアのイメージを覆す様な乾いて沈着な視線と、絡みつく重たい思念のタッチが美しい映像で描かれていて、とても好きだった。
そんなタヴィアーニ兄弟の最後の作品「ある個人的な事情-レインボウ」が、イタリア ネオ+クラッシコ映画祭2018にて上映と知り、どうにか都合をつけて初回に足を運んできた。
と言っても、上映は1日1度3日間のみ。
ここ最近の私の“個人的な問題”を考えると、観られた事だけでも感動である。

さて、数少ない上映回数と3連休最終日で初日、きっと盛況なのだろうなと思いきや、閑散としているとまでは言わないが、満席には程遠い埋まり方に一寸驚く。調べた処、昨年別の映画祭で上映済みらしいが、それにしても少なく感じられた。
総じて“嘗ての映画少年少女”と思われる、如何にもミニシアター系が好きだっただろうなな年配者が多いのは納得。私含めてねw (しかし、年齢の所為か、お隣さんが後半殆ど熟睡なさっていたのは、起こしてあげるべきか迷った。お一人で来館という事は、それなりに思い入れがあってなのだろうし、勿体ない。)
若い人はあまり居ないようで、少し残念に思いつつ、致し方ないかとも。タヴィアーニ兄弟が持て囃されたミニシアター全盛期でも、一般的にはあまり知名度がある監督ではなかった。イタリア映画界の巨匠ではあるが、平成生まれでこの監督を知っているのは、よほどの映画好きであろう。
実際、この「ある個人的な問題」を観終わって最初に思ったのは、『これは、タヴィアーニ兄弟の過去作を観ていて、ある程度の彼らの背景を知っていないと判らないだろうな』と言う、些かマイナス的感想であった。
【以下、ネタバレ含む個人的見解】
 
この作品を説明するとするならば、『パルチザンとして命懸けで抗戦していた主人公が、ふとしたことで抱いた恋敵への疑念を確かめる為に、私情と任務を混同させながら迷走する』と言う一文で済むだろう。身も蓋もなく。
しかも、台詞の大半が登場人物の心情の細切れなので、昨今の説明過多な風潮に比べたら、単純なストーリーなのに状況を理解するだけでも骨が折れるかもしれない。
だが、それが良い。
表情や景色の移り変わりで、作品全体を推し量る愉しみ。
動員数を誇る大作では、なかなか味わい難い楽しみ方である。(「君の名前で僕を呼んで」も、タヴィアーニ兄弟と同世代ジェームス・アイボリーが脚本を手掛けた事もあってか、似た楽しみ方は出来た。尤も、あちらはテーマがテーマなので、全くの説明不足と言う感じでもなかったが。ヒットしたしね。)

複雑なストーリーではないが、あからさまな説明もない。だが繊細な画面。
そんな聊か判り難い作品を息を詰め、食い入る様に観たのは、主人公ミルトンを演じるルカ・マリネッリの演技の素晴らしさに因る処も大きい。英語に堪能なインテリ層であり、故に感情を素直に吐露できず、発酵させた狂気を底に秘める。
そんな役処を無言の表情と瞳の色で、端的に演じていた。
ミルトンが思い寄せる小悪魔美女フルヴィアは、彼を嵐が丘ヒースクリフだと揶揄する。目も口も綺麗でも、不器量だと。

実際の処、ミルトンは優男ではないが魅力的な顔立ちと男性的体躯で、決して不器量ではない。フルヴィアもそれを承知の上で揶揄っているのだが、容姿ではなく本質を突いていると言う面もあったのかもしれない。
ミルトンは嵐が丘の翻訳する知性があり、友人知人もそれなりに居る。表面的には粗野で横暴なヒースクリフとは真逆の存在なのに、核に於いては同じものを持っている。愛の狭軌を突き進むと言う点に於いて。
この映画は、抗戦下の追い詰められた状況で、その姿が露呈する様を描いた作品ともいえる。
フルヴィアの侍女が、ジョルジオとフルヴィアの関係を話す辺り、将に侍女が語り部で進む嵐が丘を意識した構成ではないか。

タヴィアーニ兄弟は、実際に体験したイタリア内戦に一方ならぬ思い入れがあり、戦争の愚かさを描く事を多くの作品のテーマにしている。幾つもの賞を受けた「サン★ロレンツォの夜」は戦いに翻弄された村民を描き、「グッドモーニング・バビロン」は世界で初めての反戦がテーマの映画・イントレランスのスタッフだった兄弟が、やがて敵対する兵士として対峙する悲劇と或る種の救済を描く。(グッドモーニングの方は、第一次世界大戦)
この作品も、主人公と幼馴染で恋敵のジョルジオは、ファシストと交戦するパルチザンに共に身を投じ、戦闘シーンや巻き込まれる村民の悲劇がベースにある。
心情的にパルチザンや米軍に傾いていたとは言え、無辜の農民たち女子供までも一方的に“黒ゴキブリ・ファシスト”に虐殺されていく。難を逃れた幼い少女が、自分が置かれた悲劇に気付けないのか、或いは判った上で失った日常を求めたのか、死した家族に寄り添い横たわる姿は、台詞のない淡々とした描写であるからこそ、胸に迫るものがあった。

しかし、その描写の直後、己の狂想に掻き立てられるように突き進むミルトンの姿が映し出される。
説明が前後したが、このミルトンの迷走は、恋敵ジョルジオの救済の為である。自分の不在の間にフルヴィアに抜け駆けした疑惑を確かめるには、本来は憎むべきジョルジオを救わねばならぬと言う二律背反。次々と打つ手が失われて行く状況に追い立てられるのと合わせ、ミルトンの心理の焦燥は深まる。
国を救うパルチザンの半ば公的行動と、恋と言う“個人的な問題”による迷走。表面上は、『捕虜となった同志を取り戻す』と言う大義名分で取り繕われているが、混迷する心情を表現するかのように、画面は常に白い霧に包まれる。

ゴロゴロと岩の転がる傾斜地、荒れた山道、冷たい空気、霧、霧、霧。

明るく陽気な地中海だけがイタリアではなく、ミルトン同様、暗い路を迷ったのもまた、イタリアと言う国である。
イタリアと言う国家とミルトンと言う個人、併せて象徴する風景は冷たく暗い。
色彩や背景で、言葉より雄弁にこの辺を表現するタヴィアーニ兄弟の手腕は、嘗てと変らず凄い。そして、美しい。
執拗な愛で愛する者も己も滅ぼしたヒースクリフと、大義名分と言う我欲で民草を燃やした国家と、いずれが愚かであろうか。
底冷えする荒涼とした地を迷走するミルトンの背中は、そう問いかけている様にも感じられた。
愛も信念も、捻じれれば進む先は奈落しかない。

戦局はいずれにとっても混迷を深め、それに比例し万策尽きたミルトンもまた、狂気の狭間に堕ちる。
完全に“個人的な問題”の恋の悩みは、恋敵としてジョルジオを殺したいのか、幼馴染のジョルジオを救いたいのか。ミルトン本人にももう判らない。判らぬまま、自殺行為に近い暴走をする。
それは、一つの村の中でも敵味方になって殺し合わねばならぬ、内戦の道を転がるイタリアを象徴している様に私は感じた。
個人と国家がグルグル巻きになる。
そう思いつつ観たラストは、意味深で、だが妙に納得できるものであった。

独り、恋の思い出であるフルヴィアの別荘/嵐が丘に赴くものの、そこはもうファシストに占拠され、ミルトンに取っては墓場でしかない。
嵐が丘ヒースクリフは、物理的に全てを手にしたが精神的には何一つ得られず、失った愛の亡霊に追い詰められて死ぬ。
ミルトンは更に何も得られぬまま、恋の亡霊を追って死を求める。
敵から逃げつつも死ぬ事を願い、地雷が嵌められた橋を踏みしめるが、皮肉にもそれ故、ミルトンは助かってしまう。

この、命運を左右する“橋”は、フルヴィアが好んだ歌「over the rainbow」の具現化と私は思う。
橋は、異界へと繋ぐ道。
“こちら”と“あちら”を隔て、そして繋ぐのだ。
全てを捨て彼岸に至って、見えてくるものもある。
その“橋”を渡り切り、女への愛/我執が己を殺そうとしていた事に気付いたミルトンは、国家が身の内を喰い合っている内戦をどう見直したのか。
更に真っ白な霧の中に消えて行った彼のその先に、虹は視えたのだろうか。

答えのない結末を心の中で転がしていたが、ラストでこの映画の一番衝撃を受けた。
劇中、パルチザンはザクザクと捕虜を殺していたが、途中に持て余すように放置されていたファシストが出てくる。
彼は敵陣の中、声と全身を使いジャズドラムのリズムを刻んでいた。弾丸の様に只管。血走った眼で。
味方にも見放され、敵の嘲笑の眼差しを受けながらでも演じなければならなかったエア演奏は、狂気と一瞬でも長く生きる為の足掻きとが綯い混ざった、抉るようなリズムであった。

この、口頭ジャズドラムが映画の〆、エンドロールに被せられた。
あまりに予想外で、軽くゾッとした。
Over the Rainbowの緩やかに明るいメロディーに乗り、橋から新たな地へと旅立って行くと思ったら、最後に狂気が音の弾丸となって背後から撃ち込まれたような気がしたのだ。
新しい世界に繋ぐ七色の橋である虹もまた、光が作った虚像であり、踏み出せば墜ちると言うことなのか。

最後まで何の答えも説明もなく、観客に自問させたまま、タヴィアーニ兄弟最後の映画は終わった。
それでも、良い。いや、それで良い。
寡黙で複雑な映像の美しさが、無駄な答えを制す。
タヴイアーニ兄弟の最後の作品「ある個人的な問題ーレインボウ」、観ることが出来て良かったと思う。


さて、纏まりのない感想をダラダラと書いたが、備忘録的ものなので反省はしていない。
最後まで読んで下さった奇特な方がいらっしゃったら、お付き合いさせてしまい申し訳がないw
作品としての答えは未だ判らないが、ひんやりとして繊細、そして圧倒的な映像は、変わらずタヴイアーニ色だった。
また、偶然にもこのブログが「Over the Rainbow」と言うタイトルでもあり、より深く思い入れをしてしまった部分もある。

が、この映画をお勧めできるかと言えば、冒頭に書いたようにやっぱり『うーむ』と考えてしまう。いや、はっきり言えば勧められない。
古い作品ではあるが、ドラマティックな「サン★ロレンツォの夜」や、抒情的な「グッドモーニング・バビロン」の方が判り易く共感を得られると思う。個人的に一番好きな「カオス シチリア物語」は、チャンスがあれば是非とも見て欲しい。
その上で、もしタヴィアーニ兄弟の作風に何か琴線に触れるものがあれば、この「ある個人的な問題 レインボウ」を。今後、観られるチャンスは限りなく低くなるであろうけれど。

均等な力で映画を作り続けてきた、稀有な兄弟監督。ビットリオ・タヴィアーニとパオロ・タヴィアーニ
その極一部ではあるが、幾つかの作品を観る事が出来たのは、私にとってとても重みのある経験であった。
奇しくも、彼ら最後の映画はこのブログと同じく、Over the rainbowを掲げた作品で。
冷たい荒野、岩と霧の向こうに虹が視える。
幻でも、奈落でもいい。その先へと渡ってみたい。